爆笑問題が干された理由!明石家さんまも復活を信じた実力派コンビの苦労

度々炎上騒ぎを起こす太田光と、常識人と見られがちだが実はヤバイと言われている田中裕二のお笑いコンビ爆笑問題

爆笑問題は、過去に干されておりTVに一切出られない時期があったということをご存じでしょうか?

今回は、爆笑問題が過去に干された理由について調べました!

目次

爆笑問題が干された理由は不義理?!

爆笑問題デビュー当時

爆笑問題は1990年から1993年までの約3年間、TV業界を干されて表舞台からほぼ姿を消していたという過去があります。

その一番の理由として言われているのが、当時所属していた大手芸能事務所太田プロへの不義理をはたらいたからだと言われています。

爆笑問題の2人は、日本大学芸術学部で出会い1988年3月にコンビを組み、コント赤信号で活躍していた渡辺正行(リーダー)が主催している「ラ・ママ」の新人コント大会に出場した際に、太田プロからスカウトされて1988年にデビューしました。

1998年7月に深夜番組『笑いの殿堂』でTVデビューしてから、レベルの高いコントや太田光の毒舌の利いた漫才が人気を博し、デビューから2年で引っ張りだこの人気芸人になりました。

しかし、流れが変わったのが1990年のことでした。

それまで太田プロに所属していた爆笑問題でしたが、太田プロにスカウトしたマネージャーだった瀬名英彦氏から引き抜かれる形で、新しく立ち上がった芸能事務所スパイシーフルーツに移籍しました。

この移籍は、太田プロに事前に相談することもなく突然辞めて、ライバルとなる他事務所に移籍したということで、太田プロの逆鱗に触れました。

このときの移籍については、太田光本人も『ビートたけしのTVタックル』で独立について語っていました。↓

「『俺がたけちゃんを育てた』って言うから、その人に付いて行ったんですよ。そしたら、後でたけしさんに訊いたら、『あんなヤツ、知らねぇよ』って」
どうやら瀬名氏の口車に乗って独立したはいいもの、これが太田プロの怒りを買って干されたのが真相らしい

引用元:exciteニュース

当時から世相を斬ったり、有名人への毒舌を売りにしたネタを展開していた爆笑問題でしたが、番組ディレクター達に、「もっとマイルドなネタにした方がよい」などと言われるようになっていたそうです。

若かったとは云え「芸能界をひっくり返してやろう!」という思いを持っていた若かりし太田光にとって、これはとても窮屈なことだったのでしょう。

そのような状況の中で持ちかけられた事務所移籍の話。

事務所を移籍することに対しては、大きな問題とは考えずに何となく「面白ければやっていけるだろう」程度に思って移籍したそうですが、完全に太田プロの怒りを買ってしまい、数多く抱えていたテレビ番組のレギュラーもすべて降板する形となってしまいました

片岡鶴太郎司会の『鶴ちゃんのプッツン5』のレギュラーだった爆笑問題の2人が事務所移籍後に収録のためスタジオに訪れたところ、当日に「お前ら何しに来たの?今週からお前達のコーナーは無いよ。」と言われ、愕然とした。とラジオ番組爆笑問題カーボーイでも語っていました。
(田中裕二によると、マネージャーの連絡ミスだっただけだと言っていましたが・・・)

このように、爆笑問題が干されていたのは、大手芸能事務所の太田プロを起こらせてしまったことが原因であったことは間違いない事実のようです。

爆笑問題の復活を信じていた明石家さんま

爆笑問題と明石家さんま
出展元:東スポ

1990年から太田プロと関係のあるメディアからの忖度もあり、表舞台からほぼ姿を消してしまった爆笑問題の2人は、極端に仕事が減ってしまったため、アルバイト生活も余儀なくされたそうです。

テレビから干されたとは云え、事務所の圧力が影響しないNHKや、移籍先事務所のスパイシーフルーツの親会社である番組制作会社ウッドオフィスが関わっているテレビ東京の番組には出演したり、テレビの関係ない営業の仕事は細々と続けていました。

デビューしてすぐに活躍していた爆笑問題のことは、当時も大人気だったお笑い怪獣の明石家さんまの耳にも届いており、テレビ局のトイレでさんまさんと初めて対面した太田光は、慌ただしく移動していくさんまさんが、「噂は聞いております」と一言だけ言って颯爽と去っていく姿を見て、カッコイイ!と感じたそうです。

そして時は過ぎ、『あっぱれさんま大先生』で大人気だった内山君が某大学のミスコンイベントに審査員として参加する際に番組が密着していたそうですが、なんとそのイベントの司会は絶賛干され中の爆笑問題が担当していました。

あっぱれさんま大先生のカメラは、一切爆笑問題を写すことができないため、番組で流れたVTRには爆笑問題の2人の声だけが流れていました。

太田光は、「このカメラの向こうにはさんまさんがいるんだ」と思いながら、いつもより大きな声で騒ぎ、さんまさんに声を届かせようと必死に司会をこなしたそうです。

そして、さんまさんは、「爆笑問題の声や。あいつら頑張ってんねんなぁ。はよ戻ってこいよ!」と心の中で思いながらこのVTRを見ていたとこのこと。

1993年にスパイシーフルーツからも独立し、太田光の奥さんである太田光代を社長とした個人事務所タイタンを立ち上げた爆笑問題は、NHK新人演芸大賞を受賞を皮切りに翌年1994年には、「GAHAHAキング 爆笑王決定戦」で10週勝ち抜き初代チャンピオンとなり、再ブレイクのきっかけを果たしました。

その後『タモリのSuperボキャブラ天国』で、海砂利水魚(現:くりぃむしちゅー)やネプチューンらと共に再ブレイクを果たし、見事に実力で表舞台に返り咲きました。

さんま御殿にもコンビで初出演するなど、さんまさんとも共にテレビで共演することができるようになりました!

爆笑問題33歳の頃

そしてご存じの通り、爆笑問題はボキャブラ天国に出演していた多くの芸人達の人気が落ち着いていく中、コンスタントにレギュラー番組を勝ち取り、現在に至るまで人気を継続させています。

まとめ

今回は若手時代に爆笑問題が干されていた理由について詳しく調べました!

爆笑問題が干されていた理由としては、所属していた大手芸能事務所太田プロを不義理退所して、事務所移籍したことでした。

太田光は、干されていた時期についてテレビ番組「太田伯山」にて下記のように後悔も語っていました↓

講談師・神田伯山が「干されていなければ、(いまよりも)もっと格が上になっていたんですか?」と尋ねると、太田は「あとで知ったけど全民放に企画書が通っていた」と太田プロにいれば若くして全局でレギュラー番組を持てていた可能性があったと悔しさを滲ませた。

引用元:Sirabee

しかし、苦しい思いもしたかもしれませんが、現在の個人事務所タイタンだからこそ今の爆笑問題の地位を確立できたのではないかと思うので、結果論ですがこれで良かったのではないかなぁと個人的には思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

時間があればぜひ他の記事も読んでいってくださいね(^-^)/

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